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無心で徹するからこそ達せられる境地「三昧(ざんまい)」の意味

こんにちは。
大阪市浪速区にある真宗佛光寺派のお寺
「超願寺」です。

HPをご覧くださり、ありがとうございます。


お寺というと先祖供養の場所とお思いの方も多いですが
本来は、仏教を知りたいという想いに応える根本道場でもあります。

法要は、故人、ご先祖様への感謝のお勤め。
仏法の正しい道を知り、実践することは
感謝の意を表するために大切なことです。


堅苦しくならず、わかりやすくお伝えできればと思っておりますので
どうぞよろしくお願いいたします。


今回は、「三昧(ざんまい)」という
仏教から生まれた言葉をご紹介していきましょう。


この言葉は、本当の「無心」とはどういうことかを
わたしたちに教えてくれます。


何かに熱中したり、専念することを「三昧」と言います。
読書三昧とか、仕事三昧とか、そこにはひとつのことに打ち込むという
良いニュアンスが含まれているように思うことでしょう。


その一方で、道楽三昧や温泉三昧など
周囲の制約を無視して、勝手放題にふるまうという
悪いニュアンスも漂うことがありますね。


実際に「広辞苑」で調べてみると
社会的制約を無視して、気ままに行動するありさまを
「放埓三昧(ほうらつざんまい)」の四字熟語として記載しているのは
その一例と言えるでしょう。


仏教語として伝わった「三昧」は
サンスクリット語の「サマーディ」の訳語から来ています。


「サマ」は等しい、同じという意味で
「アーディ」は状態を指すことから
いかなる出来事にであっても、波打つことない心理状態を保つこと
そして、いつも安定して目の前の事柄に集中し続けることを言います。


たとえば野球でいえば
打者が党首の投げたボールを打つ瞬間
おそらく余計なことは何も考えていないはずです。


もちろん打者は、どうしたらヒットを打てるか
日頃ずっと真剣に考え、時に悩んであれこれ思案していることでしょう。


しかし、いざバッターボックスに立ち
バットでボールを打つ瞬間だけは
無心の集中力だけが残された状態で
過分な欲求は、かえって目的を遠ざけてしまうものです。



目的を手に入れるために、過分な欲求を捨てる。
つまり「無心」とはどういう状態をいうのでしょうか。
それは、「自分を信じる」という気持ちで
心を満たすことではないでしょうか。


このように、本来「三昧」とは、
努力に裏打ちされた自信に満ち溢れている
心の状態を指す言葉なのです。


無心であるからこそ達せられる境地。
草取りするときも無心。雑巾がけをするときも無心。
日常の暮らしのひとつひとつも
「無心の三昧」でありたいものですね。


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